温泉=熱い?
じつはだいぶ以前から“ぬる湯”に興味がありました。というのも、私は湯にのぼせやすい体質で、せっかく温泉に入っても長くいられず、思う存分に堪能できないことを残念に思っていたのです。熱くなく、いくらでも長湯ができる温度だという“ぬる湯”を知ってからというもの、湯船に浸かりながらうたた寝をする“のぼせ知らずな温泉”を夢見てきました。そんなわけで、今回の取材を密かに楽しみにしていました。
良く晴れた5月のある日。山も森も田んぼも、生き生きと緑を茂らせています。名久田(なくた)地区の、のどかな里山の風景のなかに、ぽつりと建つ一軒宿は、いかにも温泉宿的な佇まいや、派手さはまったくありません。むしろ表から見るとごく普通の民家のようにも見える、この『金井旅館』こそ、知る人ぞ知る“ぬる湯”の温泉宿です。一見して温泉宿と気づかず、“一見さん”は 若干戸惑うかもしれません。だけど、勇気を出して訊ねていただきたい。なにせ、温泉の質は本当に “折り紙付き”なのです。
驚きの“ぬるい”温泉
開湯600年。4代目主人の金井昇さんいわく「戦国時代には真田系の武将たちをかくまい、その傷を癒した」という逸話もあり、その効能は、現在でも湯治場として根強い支持を得ています。
浴室は、混浴がひとつと、男女別がそれぞれ。ドバドバと新鮮な源泉が滝のようにそそぎ、湯船からあふれ出ている混浴風呂。昔ながらの混浴を残しているのは、「万が一、入浴中のお客さんが具合が悪くなったときでも、付き添いの夫や妻がお互いを助けられるように」と、湯治客への配慮からです。湯量は相当なもの。男女別の内風呂と露天風呂は、湯船が3つずつあり、源泉のままの34℃、加温した38℃、41℃と3段階の熱さ。それぞれの浴槽を行ったり来たりしながら、長く温泉にいられるように工夫されたもの。ためしに源泉に手を入れてみると…、なるほど。ぬるい湯というより、冷たくない水、という表現の方が正解でしょうか。このぬるさ、ビックリするお客さんもいるのでは?
「初めてのひと、なんの予備知識なくいらっしゃるひとはね。たまたま通りがかりで寄ったひとはたまげちゃうね」と金井さんは大らかに笑います。いままでの私のなかの“熱い温泉”のイメージをまったく覆す、驚きのぬるさ。とはいっても温泉ですから、しっかりとお湯に浸かって体を温めれば湯冷めはしないといいます。
湯治場としての温泉の姿
元来、貴重な治療の場だった温泉。『金井旅館』は、ひとと温泉との関りを、いまもそのままに残しています。
「現代のように医療が発達していなかった時代、患者さんの悲痛な気持ちを、お湯が受け止めてきました。良くなった、という患者さんの感激の声は、何とも言えない喜びを感じますね。この旅館をぜひとも続けていきたいと思います」。温泉を継いできた金井さんの言葉です。
東京から長湯治のために来ていた、豊田由紀子さんからお話を訊くことができました。豊田さんはリウマチと診断されましたが、もともとの体質から、一般的な投薬などによる化学療法を受けることができませんでした。そのため自然療法として、大塚温泉を紹介されたのだそう。はじめは週末ごとに通い、いまでは宿の近くに住居を借りて住み、休暇を利用した長期滞在で、毎日平均6時間は温泉に入っています。体調の改善を実感しているといい、「温泉に入っている間は本当に体が楽なんです」と話します。長湯することで温泉の効能を充分に得られます。それが可能なのも、この“ぬるさ”のおかげ。
私は内心、こころを揺さぶられていました。自分の住む場所も、生活も変えて、お湯を求めてやってくるひとたち。“良くなりたい”という、強くて真摯な想い。それらの想いを、長い間迎え続けたお湯と、お湯を守り続けてきた金井さんたち。今まで何人ものひとが、この優しいお湯に癒されてきたのかと思うと、こころの奥がジンワリと温まる思いがしました。