晩冬の日曜日、四万温泉を行く。四万温泉協会のある落合通りから川を挟んだ日向見通りの稲荷神社の側に、古さを残しながらもきれいな出で立ちの「Cafe &蕎麦 なが井」はある。煙突からは、細く長い煙が上がっている。
店を切り盛りするのは、岡田ふみ恵さんと、ふみ恵さんの長男の妻である岡田麻矢さん。この日は他にふみ恵さんの長女も店員として加わり、女性3人でてきぱきと仕事をこなしていた。古民家をリノベーションしたモダンな店の奥座敷からは、薄く雪化粧した向かいの山々が見える。看板メニューの蕎麦はふみ恵さんが打っており、食べてほっとするような、品の良い蕎麦であった。蕎麦に限らず洋食もメニューにあり、デザートのそば粉のシフォンケーキまで食べれば満足以外の言葉が見当たらない。
四万温泉を古くから知る人は、この蕎麦の味を懐かしく思うかもしれない。実は昨年の十一月まで、この店は3年間の休業を余儀無くされていた。そしてふみ恵さんや麻矢さんの今を語るには、およそ100年前まで時間を遡る必要がある。そこには、親子3代にわたる女性店主たちの姿があった。
大正13年、「なが井」は料理屋として開業。昭和初期にふみ恵さんの祖父が前橋の蕎麦屋「あらたま」で修行をし、その後は「蕎麦処なが井」と名を変えた。戦争中に病気で亡くなった祖父に代わり、店を切り盛りしていたのは祖母。現在店内に飾られている、祖父が撮ったモノクロ写真には、当時の店とそこに出入りしていた人々が映し出されている。当時も四万温泉には賑わいがあり、祖母が打つ蕎麦も観光客や地元客に愛されていた。
ふみ恵さんが物心ついた頃には祖母は現役を退いており、継いで店を切り盛りしていたのは彼女の母だった。店は自宅でもあったので、ふみ恵さんは今も、日々の営業が終わった後に夜なべをしてそば打ちやうどん踏みをしていた母の姿を覚えているという。「母は祖母の見よう見まねで蕎麦打ちをしていました」とふみ恵さん。まさかこの時は、自分が跡を継ぐなどということは思いもしなかった。
母は、近所のお手伝いさんや四万温泉協会を定年退職した父親の力も借りながら、88歳まで現役で働いた。倒れる前日まで店に立っていたというから、根っからの働き者だったに違いない。一命はとりとめたが、それと同時に「なが井」は休業に入る。
四万温泉に生まれ育ったふみ恵さんは、短大の保育科を卒業し幼稚園に勤務。結婚を機に、嫁ぎ先となった前橋・高崎にあるゴルフ練習場の仕事を手伝うようになった。練習場にはカフェがあり、何かお客さんの目を引くものが作れないかと思ったふみ恵さんは、見よう見まねで母親の蕎麦打ちを覚え、カフェで提供するようになった。
一方の麻矢さんは岐阜生まれ。大学時代は埼玉で暮らし、そこでふみ恵さんの長男と出会った。卒業後は銀行勤めをしていたが、結婚を機に2年前に群馬に移住。当時は群馬の温泉といえば伊香保か草津で、四万温泉を知らなかった。移住後は、ふみ恵さんと同じくゴルフ練習場の事業に関わるようになった。
休業していた「なが井」を再スタートするきっかけは、ふみ恵さんの夫の「100年続いた店を途絶えさせるべきではない」という一言。会社でバックアップをするからやってみたらどうかとふみ恵さんに持ちかけた。ふみ恵さん自身も、祖母や母が営んできた店には並々ならぬ思いがあった。そこからは、あれよあれよと話が進んでいく。嫁いできた麻矢さんも店づくりに加わり、古い柱や梁を生かした現代的なリノベーションが行われ、蕎麦だけではなくカフェ利用もできるようにと独自のメニューを考えた。無理のない営業をしようと、2人は平日は練習場の業務に携わり、毎週日曜日だけ「Cafe &蕎麦 なが井」を開いている。
店内には、リニューアル前からあった2つの掛け軸が飾られている。そこにはそれぞれ「召し上がれなが井きそばと言ってから」「なが井ほそ道上がってお出でわたしとあなたのそばの味」と書かれている。「なが井」と「そば」を掛けた粋な言葉遊びだ。リニューアルにあたり、新しい掛け軸を制作。そこには「水音のそばで見守り続けて一世紀くつろぎのひと時を末なが井思い出に」という言葉が添えられている。「はじめて四万温泉に来た時に、四万川の音が印象的で」と語る、麻矢さんが考えた言葉だ。彼女は今後、四万温泉ならではのメニュー作りにも挑戦したいという。
「母が営んでいた時のお客様が来てくれたり、前橋や高崎のお客様がこちらにも来てくれたり。今は、無事開けられたことにほっとしています」と語るふみ恵さん。母は昨年亡くなったが、その前に再び店を開けることを伝えることもできた。
四万の湯につかり、蕎麦を食す。この場所で歴史に思いを馳せれば、夜なべで蕎麦を打っていた母、そして戦後の厳しい状況下で店を切り盛りしていた祖母の姿も浮かんでくるかもしれない。