パブリック ランゴリーノ|須永一久/千恵美さん (すなが かずひさ/ちえみ)

  • 2024年3月3日
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四万(よんまん)の病に効くという謂われのある湯につかり、四万温泉協会のある桐の木平商店街を歩くと、古い薬屋を改装した全面ガラス張りの店がひと際目を引く。店の名前は「パブリック ランゴリーノ」。2020年6月にオープンした四万温泉初の本格イタリアンだ。
アンティパスト(前菜)としてチーズとオリーブの実のオイル漬けを、メインディッシュの前に、緑の新鮮野菜にビーツの赤色が鮮やかなサラダを注文する。シンプルゆえに使う食材の良さがわかる。シェフに詳細を聞かなくても、口にするだけで雄弁に語りかけてくる料理・・いや、雄弁な料理以上に雄弁に語りかけてくるのが、オーナーシェフの一久さん。ランゴリーノは、彼の「表現舞台」である。

独創的な料理で人々を魅了する一久さんが包丁を手にしたのは、25歳とずいぶん遅い。群馬県館林市に生まれ育ち、絵を描くことが好きだった一久少年。モータースポーツ好きでレースにも出場していた父親の影響もあり、車のカスタム業界に飛び込んだ。デザイン力だけではなく様々な知識や技術が必要とされる職場で一番を目指すためにがむしゃらに働いたが、そこで出会った業界トップランナーの仕事を見て「絶対に越えられない」と深い挫折を味わった。妥協ができない性格だった。
職を辞め思いつめた彼を励まし、救ってくれたのは彼の友人たち。そんな友人たちに恩返しがしたいと思った彼は「みんなが集まれる店」を作ることを思い立ち、店をやる上で全く経験がなかった料理の勉強を決意する。・・四万温泉の話は、彼の口からまだ出てこない。

熱く語る一久さんの隣には、対照的に物静かなパートナーの千恵美さんがいる。「四万温泉で店をやりたいからと熱弁されました。カズさんはイノシシみたいな人で決めたら猪突猛進なので、そうかそうかとこの店にも少しづつ関わっています」。埼玉県羽生市生まれ、ヨガ講師である千恵美さんのゆったりした話からも、一久さんの勢いが感じられる。

料理をやると決めた一久さんは、全国津々浦々の料理店を調べては、直接足を運び、興味のある店には飛び込みで雇ってもらった。料理の基礎を学ぶために東京の創作居酒屋で働き、様々な料理の中で自分が好きなのはイタリア料理であるとわかると、全国にあるナポリピッツァ協会の店を3カ月半かけて食べ歩き、福井のピザの名店で働いた。イタリア料理の深さを知った一久さんは、そこに自分の居場所を見出すようになる。
怒涛の修行を終えた一久さんは、初心、友人たちが集まる店を作るべく、故郷館林市でレストラン開業準備を進める。土地を見つけた話や、店舗デザイナーとの出会い、セルフビルドで行なった店作りなど、それらを説明していたら四万温泉に行き着くまでに紙面が足りない・・そうして出来上がった館林の店に客として来店した千恵美さんは、一久さんが作ったトマトベースのシンプルなパスタ、ポモドーロを一口食べて感動。2人初見だったにも関わらず、ランチ営業の終わりから3時間近く話し込んだ。「料理が純粋に美味しかった。もっと話を聞いてみたいなと思って。それがきっかけです」と千恵美さん。

四万温泉での店舗開業のきっかけは、2019年に行われた「温泉郷クラフトシアター」。県内のモノづくり職人などが四万温泉に滞在し制作や展示を行うイベントだった。友人の紹介で出店した一久さんは、そこで職人たちや、イベントをサポートした四万温泉の人たちと距離を縮めた。館林での営業にひと区切りを感じていた彼は、コロナ禍の自粛期間中に自身の手によってこの店を作り上げた。観光客はもちろん、四万で暮らす人や、館林の常連客も時間をかけて足を運んでくれる。「ここは、あったかいです」と2人。

その日のメインディッシュは、柔らかく煮込んだ牛肉のソースに筒状のパスタが絡む一皿だった。皿の周りには、砕かれた地元の栗が芸術的に散りばめられている。それを作ったシェフは溢れんばかりの情熱を持つ男だが、それを聞かずしてもやはり、至福の一皿であろう。店を出ると、四万の夜は静かに更けていた。