たんげ温泉 美郷館|高山 弘武(たかやま ひろむ)

  • 2024年2月4日
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中之条の山のなかに、一軒、ひっそりと隠れるように存在している温泉宿があります。忙しない日々、慌ただしさに通り去ってしまう時間を、はたと止めてくれるような。そんな旅館です。
場所は、反下地区たんげ温泉。沢渡温泉へと向かう道を手前で折れ、川の流れを辿るように進んでいくと、瑞々しい緑の谷間に小さな集落と出会います。昔ながらの美しい里山の風情、その一番奥に、集落と森の境に建つようにして『美郷館』はあります。
まず客を出迎えるのは、総欅の重厚なロビー。おもわず声が漏れてしまいそうに見事な木造建築です。重厚な柱、何枚も床に敷き詰められた幅広の一枚板、見上げれば太い梁、ズシリと分厚い木のテーブル。これらの木の樹齢は300~500年といいます。いったいどれほどの重みかと想像すれば、途方のなさに目が眩みます。
ロビーを奥に進むと、そこにはゆったりとした静寂の空間と、心落ち着く自然の風景が広がっていました。
旅館のすぐ横を流れる反下川、その川面は柔らかい乳白色を帯びた涼しげな青緑です。客室の窓からはせせらぎを楽しめ、露天風呂は脚を伸ばせば流れに届きそう。運が良ければ、対岸に遊びに来たカモシカと目が合うかもしれません。移ろいゆく自然に身を任せ、山の呼気を浴び、湯に浸る・・・心もからだも解きほぐされる贅沢なひととき。
「一泊ではもったいないくらいのところだと、自分でも思っています」と話すのは旅館の主人、高山弘武さん。その言葉通り、限られたなかでは味わいつくせない、つい時を忘れてしまう別天地です。
この旅館を建てたのは、弘武さんのお父さん。もともと林業をしていました。
「父は木に対する思い入れがとても強くて、良い木をたくさん所有していたんです。山の中の宿ならば、鉄筋の建物を作るのではなく、銘木を存分に使い、木の良さが伝わる〝本物の木〟と、〝本物の温泉〟、本物志向の旅館をやろう、と。木は木挽き職人に依頼して、一枚一枚、大鋸(おおが)という大きなノコギリで挽いてもらいました。そういう昔ながらのやり方で300日ほどかけて切ってもらったものが、このロビーの床や梁に生きています」。材にも技にも、こだわりが貫かれています。
温泉地ではない一軒宿で、開館当初はなかなか客足が伸び悩み大変な年もあったといいますが、いまでは「山が好きだ」「この静かな環境が良い」と、自然と木のぬくもりを求めて何度も足を運ぶ宿泊客も増えていきます。
そんななか、2004年に新潟県中越地震が起こります。
「この一帯はひどく揺れたんです。その後、お湯の温度が約9℃も下がってしまった。加温をどうするか試行錯誤し、去年からバイオマスのボイラーを投入しました。お湯の加温や館内の給湯に木くずを利用しているんです」
循環エネルギーとして注目を集めつつあるバイオマスエネルギーですが、関東の旅館としては初めての導入といいます。「初期投資などデメリットもあるが、早い時期に始めたことで何十年後かに返ってくるものも大きいのではないか」弘武さんは続けます。
「林業の衰退により人の手が入らなくなった森林は、環境が悪くなり山が全部ダメになってしまうんです。この里山もそうです」
日本は森林が約2/3の面積を占め、中之条町も8割が森です。山や森と人間界をつないできた里山、さらにその間を取り持ってきた林業の役割。私たちがすでに持っているはずの、けれどつい見落としてきたすぐそばにある〝恵み〟と、いま向き合うときなのかもしれません。
山の中の一軒宿。山の澄んだ空気。心を自然にゆだねれば、静かに流れる木の時間が、ときを刻みはじめます。