隠居安平衛|山本 茂(やまもと しげる)

  • 2024年3月18日
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中之条町各地の山と人との関わりを見てきたが、今度は時間軸を過去に戻してその関わりを見てみたい。山の昔を知るならこの人を訪ねなければならない。野反湖へ向かう六合入山地区の傾斜のどん詰まりに「隠居安平衛」と書かれた木看板。このあたり一帯は「山本」姓ばかりなので、各家々には「ひでよし」「上関」「こうむてん」などその家の特徴を表す屋号が書かれた看板が掲げられている。「隠居安平衛」の主、山本茂さんの玄関を開けると、床も壁も天井も木で作られた立派な居間。まだ寒さ残る時期だったので、茂さんは薪ストーブに火をつけてくれた。昭和13年生まれの85歳。穏やかな語り口で、茂さんが語り出す。

「子どもの頃、朝起きてはじめにするのはウサギ、ヤギ、牛の世話だね。草をとってきて自分たちより前にご飯を食べさせる。それが子どもの仕事。農作業が忙しい時は学校も農繁休暇で、麦刈りや脱穀を手伝った。遊び場は山や畑だったね。夏は山へ入って藤つるでターザンごっこをして、冬は畑の坂で自分たちで作った木のそりやスキーで遊んだよね。秋には落ち葉をかき集め、窪地に溜めてそこに飛び込んだ。落ち葉はかごに集めて、牛の糞と混ぜてたい肥にした。無駄なものはなかったね」

赤岩地区に生まれ、6人兄弟。六合中北部は平地が少なく標高も高いため米作りに適さない。六合には木地師と呼ばれる木工の匠がいて、栃の大木を手引きののこぎりで切り倒し、中をくり抜いてこね鉢を作った。こね鉢はどこの家にもあり、おっかさん(茂さんは母親のことをこう呼ぶ)は家族のためにそれを使って毎晩うどんを打った。小麦も味噌も醤油も自家製。ウサギや、年をとった鶏を絞めて食べる肉は贅沢品だった。お金もないし近所には店もない。「自然の恵みだけで生きていた」と茂さん。
戦後、地元に仕事がなく集団就職で一度東京へも行ったが、茂さんが選んだのは故郷での教員の仕事だった。六合、草津、長野原と3町村の学校に務めた。ある程度のキャリアを積むと試験を受けて昇進をするものだが、子どもと接することを一番とした茂さんはいち担任であり続けた。「子どもたちは、ちゃんと関わるとちゃんと伸びる」最後に就いた草津中学校の特別支援学級での日々は、とても良かったと懐かしむ。

話を聞いているうちに、ストーブの薪が白く焼き上がり、熾火となった。茂さんは炭バサミでそれを取り出すと、机の下に掘られたこたつにくべた。じわじわと、温かさが足からも広がってくる。

六合には100を越える民話があり、今日のようにこたつなどを囲んで大人が子どもに民話を話して聞かせる「昔語り」と呼ばれる行事もある。欲張り爺さんや河童の話、面白さの中には村で生きるための知恵や道徳が生きている。茂さんも教員定年後、この場所に隠居小屋を建てて六合の昔を伝え残すための活動を精力的に行ってきた。「六合の文化を守る会」の中心人物となり、山での暮らしや、後継者不足でなくなってしまいそうな六合の民俗を冊子として書き残した。その冊子には引沼地域で毎年1月15日に行われている「おんべーや」という伝統行事も記載されている。これは、日本最大規模のどんど焼きとも言われており、巨大なやぐらを燃やすだけではなく、地元住民が七福神の衣装をまとって家々を回り、五穀豊穣や家内安全を願って福俵を投げる奇祭である。昭和30年頃までは、養蚕農家の広い二階を使って芝居もしていた。「村人が義太夫を語り、衣装を作って俳優もやる。娯楽も各集落が自分たちで作っていたんだよね」と茂さん。

茂さんの義母は、六合の伝統工芸品とも呼べる「こんこん草履」の名職人だった。その草履は、スゲと呼ばれる草を温泉に漬けて柔らかくし、色取り取りの布を巻き付けて、木型を使い編み上げ作られる。名前の由来は、成形する際に木槌でこんこんと叩く音から。義母が作る草履は見事で、四万温泉の商人がそれを買いに家まで毎年やってきた。
何度聞いても素晴らしいなと思う話がある。昔、野反湖が今のような発電湖となる以前は、野反池と呼ばれる池だった。スゲは、その池の周りにたくさん生えていた。深夜、仮眠をとったあとに背負子を背負ってスゲ刈りに行くのは女性の仕事だった。何時間も山道を歩き、夜明けと共にスゲを刈る。一方、授業を終えた子どもたちは、手ぶらで野反池へと向かう。夕方頃、重いスゲを背負った母親たちと子どもたちが途上の富士見峠の下で合流する。荷を分け合い、家へと帰ってくる。茂さんからその話を聞く度に、今はもう失われてしまった家族の風景が、ありありと目に浮かぶ。

茂さんは、地域の過疎化に危機感を抱きつつも、それをあおる事もなく穏やかに、今できることを着実に行ってきた。それが六合の人々や、六合を知りたいという外部の人々から信頼される所以だろう。茂さんは、日が落ちる頃には晩酌を始め早寝をし、日の出と共に起きる暮らしを続けている。「そうすれば電気も使わないんだよね。人のために自然はあるんじゃなくて、もっと広い意味の中で自然の営みはあるんだから」という彼の言葉を、大切にしたい。